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応仁の乱とは? わかりやすく解説! 原因や結果・年号語呂合わせ 指導案の参考にも

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応仁の乱について、元塾講師がわかりやすく解説していきます!

「ひとよ、むなしい(1467年)」 応仁の乱

 

中学生・高校生のみなさんや、歴史をもう一度学びたい大人の方々に理解してらえるように、

また、社会の先生の授業の参考していたいただけるように、説明します!

 

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応仁の乱が起こった時代は

 

まずは、応仁の乱が起こることとなった時代について理解しましょう。

応仁の乱が起こったのは「室町時代」

足利家が将軍として日本のリーダーだった時代です。

足利尊氏征夷大将軍となって室町幕府を開いた、と習いましたね)

 

しかし、将軍が日本を全て直接治めていたわけではありません。

「守護大名」という人たちに各地の支配を任せていました。

室町時代が始まったころは、将軍の力が強くて守護大名は逆らうことができませんでしたが、

室町時代ができて130年も経つと、将軍の力が弱くなっており、

守護大名たちはしだいに将軍の言うことを聞かなくなっていました

 

そのため、守護大名が他の守護大名たちと争うようになっても、

将軍が「ケンカはやめろ!」と止めることができなくなっていました。

 

さらに、将軍の次にエラい「管領」という人たちも、

将軍の言うことを聞かなくなり、

自分達のやりたいようにやるようになっていました。

 

 

応仁の乱のきっかけとなる3組の対立

 

そんな中、3組の対立が発生します。

この3組の対立が複雑にからみあうことで、応仁の乱が起こるのです。

 

畠山義就 VS 畠山政長 畠山氏のリーダー争い

畠山氏(はたけやま)は、幕府の管領として働いていた一族です。

さきほど説明したとおり、管領は将軍の次にエラい役職です。

 

あるとき、「畠山氏のリーダーは俺だ!」と畠山義就畠山政長が争うようになります。

すると、将軍の足利義政(京都の銀閣を建てた人物です)は、

畠山義就がリーダーだ」と言います。

 

しかし、しばらくして「やっぱり、畠山政長がリーダーだ」と意見を変えたため、

 

畠山義就 VS 畠山政長

 

の争いが激しくなっていきます。

 

足利義尚 VS 足利義視 次期将軍争い

優柔不断な将軍・足利義政の次の将軍に関しても、争いが起こります。

もともと、足利義政には子供いなかったため、弟の足利義視が次の将軍になる予定でした

しかし、足利義政と妻の日野富子の間に足利義尚が生まれます。

すると、足利義政と日野富子は「やっぱり自分の子供を将軍にしたい」と言いだします。

 

そのため、

足利義尚 VS 足利義視

という対立が生まれていき、

先ほどの畠山氏の対立と合流していきます。

 

そうして、

畠山義就 VS 畠山政長

足利義尚 VS 足利義視

 

という状態になったのですね。

 

 

山名宗全 VS 細川勝元

さらに

山名宗全(やまな そうぜん)と

細川勝元(ほそかわ かつもと)が

これらの争いに加わることとなります。

 

この二人は、それぞれたくさんの地方を支配している守護大名。

そのため、室町幕府に対しても強い影響力を持っていました。

 

もともと仲が良かったとされる二人でしたが、

次第に仲が悪くなりそれぞれが相手の存在がジャマだと考えるようになっていきます。

そのためお互いがお互いを追い出したいと考えていました。

 

そんな中、先ほど説明したような2組の対立が起こります。

そこで、山名宗全細川勝元は、それぞれ別の側に味方して戦うようになったのです。

 

そうして、

 西軍    東軍

畠山義就 VS 畠山政長

足利義尚 VS 足利義視

山名宗全 VS 細川勝元
 (総大将)      (総大将)

という戦いになっていくのです。

 

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応仁の乱の経過

 

そうやって起こった応仁の乱。

山名宗全や細川勝元に誘われ、各地の守護大名たちが戦いに参加し、

京都を中心に各地で戦争が起こり、11年間も続きます。

 

途中で山名宗全や細川勝元が亡くなります。

そこで戦いをやめればよかったものの、

それぞれが引き下がることができず、戦いが続きます。

 

そんな中、戦いのきっかとなったにも関わらず、戦いに参加していない人物がいました。

将軍・足利義政です。

この人物が、戦いを終わらせる流れをつくります。

 

将軍・足利義政は

次の将軍は息子の足利義尚に決定!」として、

次期将軍争いの対立を落ち着かせます。

足利義視も長引く戦いが嫌になっていたようで、

将軍になれなくても、戦いをやめる提案を受け入れます。

 

このように、対立の一つが落ち着くことで、

長期間の戦いが嫌になっていた守護大名たちも

次第に戦いから去っていくこととなり、

応仁の乱は終わっていくのです。

 

※本当はもっと複雑で、斯波氏や大内政弘など、さらには足利義視の寝返りなども出てきますが、当サイトでは中学生や歴史が苦手な方でもわかりやすくなるように省いています。もっと詳しく知りたい方はコチラ↓がおすすめです。

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応仁の乱の結果

 

応仁の乱は「〇〇が勝った!」というものではありませんでした。

京都は荒れてしまい、足利将軍家の力がさらに弱くなっていきます。

そのため、さらに地方の守護大名たちは言うことを聞かなくなっていき、

勝手にそれぞれの土地を奪い合うようになっていきます

さらに、守護大名が部下たちにリーダーの座を奪われることも起こるようになります。

これを「下剋上」といいます。

 

そうやって、日本各地で争いや戦争が起こってくるようになっていきます。

これがこの後「戦国時代」になっていく理由です。

 

このように、応仁の乱の結果、何も生み出さず、

戦いの世の中になってしまった。

語呂合わせの「ひとよ、むなしい(1467年)」は、

無駄な戦いだった応仁の乱のむなしさを表していると考えると覚えやすいと思います。

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